2011年10月30日日曜日

むずかしいことをやさしく



むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに
書くこと


という井上ひさしのことばがあります。


むずかしいことをさらにむずかしく云う人がいます。
簡単なことをわざわざむずかしく云う人もいます。
むずかしいことがレベルが高いと思ってしまうのか
むずかしく云うことで自分を大きく見せようとするふしがあります。
やさしいことは簡単に云ってしまって
軽く伝わってしまうこともよくあります。
逆に深いことは小難しく云っているようなところもあります。


きちんとコトの本質を理解し
モノの深さを考えることが大事なんだと思います。
むずかしいことをやさしく云ったり
深いことを愉快に云うなんていうほうが
レベルはかなり高いはずです。
深く理解していないといけないですから。
理解出来ていないときほど
話がむずかしくなったり軽くなったりします。
自分をごまかしているからだというのは
私も覚えがあるのでよくわかります。


人に伝える、とは何か


それを考えるとき
井上ひさしのこのことばを繰り返してみます。
そして、
人になにかを伝えるということに対して
真摯に取り組まなければ、と襟を正します。





2011年9月20日火曜日

ビール祭りで元気になる

オクトーバーフェストに今年も行って来た。
ドイツのビール祭りin仙台(錦町公園)だ。
カンパイしてビール飲んでソーセージ食べて、
楽団で盛り上がってカンパイしてビール飲んで。
だんだん気分が良くなってくる。
大きなテントの真中に
ドイツの楽団がいて
その周辺で、肩組んだり踊ったり
その周辺でビール飲んだり手拍子したり
この盛り上がり、
盆踊りに似てるかも。
日頃のいろいろなことあっても
このときは、ぱぁーっと楽しんで
明日からの力になるような。
お祭りってそんなものだよなーと
震災後の東北の祭りを見ていて思っていたけど
きょうのビール祭りの盛り上がりも
まさにお祭りそのもの。
櫓の上で拍子を取ってる楽団もみんなを見て
みんなも櫓の上を見て
みんなが曲を介して一体となる。
今年のドイツの楽団のみなさんは
いつにも増して盛り上げ上手。
飲んで歌って踊ってカンパイ、
テントの中が、楽しいでいっぱいだった。
人は、きっとお祭りを必要とするものなのだよ、
などとと思いつつ、
私もすっかり楽しくなっちゃって上機嫌です。

カンパイ、カンパイ、プロースト!

2011年8月21日日曜日

大きな動きがある時に浮かれない

最近、
何が良くて何が悪いのか
よくわからなくなってきた。

震災があって
原発の問題があって
世界の経済も問題で
政治のゴタゴタがあって
なでしこジャパンが優勝して
一瞬明るくなっても
牛だの米だの出荷停止とか解除とか。
そんななかでも
殺人事件が起きたり
大きな倒産があったり
よくわからないフジテレビの騒ぎがあれば
24時間テレビで徳光さんマラソンしてたり。
そうこうしているうちに
選挙権が届けられ、え?選挙?

日々右往左往している感じの世の中に
物事は雑然としていて
整理がつかない。
そんななかだと
何に怒れば良いのか
何を嘆いたら良いのか
何に向かえば良いのか
見当がつかない
ただ漠然とした不安だけがある。

国は確かに頼りない。
このままじゃイカンとも思う。
だけど、何を批判すべきなのかもわからない。
こんな状況に対する自分の思いすら
整理できていないのだから
なんだかなぁ。

きっと、これは時代の分岐点。
良くも悪くも大きな分岐点なのだと思う。
こんなときは、浮かれず慌てず
自分の身の丈のなかで出来ることを
しっかりやることが大事だと思う。
どんな大きな時代の変わり目でも
自分の力以上のことは出来ないから
無理して何かをやろうなんて気負うと
きっと痛い目にあう。
だからこそ、
地に足つけて目の前のことをしっかりと。
自分を過信せず、だからといってあきらめず。
地道に自分の仕事をこなしていこう。


2011年8月17日水曜日

何年経っても変わらないのです


1週間の間に、懐かしい集まりが立て続けにあった。
中学、大学、社会人(若手の頃)のそれぞれ。
20年近くぶりの人から、10年、5年ぶりと
久々の再会目白押し、である。

変わらないねぇ。

何度も出てくるそのセリフ。
確かに見た目も変わらないけれど
変わらないのは
その人の根本。
根っこの部分は、そう簡単には変わらない。
そして、
なにも飾ることなく
根っこの部分を見せられちゃうのが
昔の仲間なのではないかな。

日々、気を張ることが多くても
自分をガードすることがあっても
昔の仲間の前では
そんな必要はないから
あっという間に
その頃に戻ってしまう。
あっという間に
教室のなか、ティールーム、営業所、
あの場所に戻っている。

懐かしい話をして
そして、近況の話をすると
それだけの歳を経た今のみんなが
今をしっかりと生きていることを知る。
自分らしく生きているから
ほんとうに
変わらないねぇ、と思える。

やっていることは違っても
ほんとうに根本は変わらないものなんだなぁ、
としみじみ思いつつ、
なんだか安心する。

変わらないねぇ。

そりゃそうさ、
大事なところは変えてたまるか、
ということもあるからね。

2011年8月1日月曜日

仕事をする上で時に孤独なこともある

自分が20代から30代前半のころのことを
もう少し思い出してみる。

その期間、何を学んだのだろう。

仕事の厳しさとやりがいと
楽しさ少々。
人とのかかわりの楽しさと厳しさ。

20代の頃は
会社内外の人たちと親しくなって
一緒に仕事をしたり遊びにいったり
それはそれで良い時代。
私は、社内からも、同業の人たちからも
特に敵でもない、害のない人だった。

30代のなって状況は変わった。
私がかかわっていた新規事業が軌道に乗って
色々な所に影響を与えはじめた。
そうすると、
社内でも社外でも突如敵になる人も増えてきた。
私は、もう害のない人ではなくなった。

状況が変わると
周囲が一変する。
その場合、周囲に惑わされてはいけない。
仕事そのものを見据えて
自分がやるべきことをやるしかない。

仕事をしていくなかでは
時に孤独なこともある。
でも、その孤独を知っている人が
強いということもある。
孤独から逃げるな。

そうか、
この時期にけっこう大事なことを経験したんだな。
色々な意味で、今の私の基盤がある。
人間不信になりそうなこともあったけど
うわべのやさしさなんかが、すぐわかるようになった。

そしてわかったことは、
ほんとうに信頼関係を築くことができている人は
立場がどう変わったところで何の問題もない、
ということ。
それは確かなこと。

2011年7月31日日曜日

自分が必要とされているかがいつも気になっていた。

以前の職場で、
その当時若手だった人たちで集まろうか
という話になった。
かつて20代から30代の若手と呼ばれていた人たち。
当然、今集まったらすでに40、50ですから
ちっとも若くはない。
というわけだから、
「かつて若手だったの会」
という飲み会になりそうな模様。

そんなことで、
ここのところ、20代30代の自分をふと思い返している。

20代から30代前半。
自分の居場所を確保する為に
自分の仕事の幅を広げていたような気がする。
営業しながらパソコンで営業資料をつくるとか
自分の担当の他に新規事業の担当をするとか
担当エリアを一つ増やすとか
本筋のところでの不足分をなにかで穴埋めをする
という方法で自分を認めてもらおうとしていた。

たしかに
その場で自分が働き続けたいのであれば
必要だと思ってもらう為に
なんらかの努力をすることは必要だ。
現に、私は不必要だとは思われることなく
働き続けることができた。
だから、間違いではなかったと思っている。

しかし、必要とされていたのか、と考えると
いないと不便、
その言葉がぴったりのような気がする。
いないと不便止まり。
それは、必要とされている、ということなのだろうか。
少しだけニュアンスが違う、
そう思う。
きっと、それは本業をめいっぱいではなく、
穴埋めになにかを追加して帳尻をあわせていたことが
原因ではないかと思った。

その時の自分を否定するわけではない。
それが精一杯だったと思うし
それしか出来なかったのだと思う。
でも、今、
本業で勝負してみたいと思う。
何かを追加する癖は今でも抜けていないけれど
本業をあきらめず極めたいものだ、と
考えている40代です。

若いときは若いときのがんばりかた、
それなりの経験を積んだらそれなりのがんばりかたが
あるんじゃないかな、と思ったりするわけです。
あの頃のような体力はないし、
でもずうずうしさは手に入れたし、ね。


2011年7月25日月曜日

自分の中の整理整頓が必要だ

どうも自分がいっぱいいっぱいになった
と思ったら、
きっと整理整頓が必要なときです。
自分の中でいろんなことが散らばって
ゴタゴタになっているので
効率も極度に悪くなります。
私はそんなに器用ではないので
考えながら整理整頓が出来る質ではありません。
一回立ち止まって整理しないとだめなんです。

でも、
自分のなかで整理できたら
物事8割方出来たと思ってもいいのではないでしょうか。
整理することは理解することのような気がします。
整理することによって
漠然としていたものが
はっきりとした具体的なものになっていく。
漠然としているから整理が出来ず
もやもやしてわからないことが
頭の中に詰ってしまうから
物事は進まず、不安にもなる。

忙しいときほど
時間がないと思うときほど
立ち止まったほうが良いのかもしれない。

具体的にすること、
前に進むための一番重要なこと。

今、私自身が整理整頓が必要なとき。
棚卸をしよう。

2011年7月18日月曜日

理解してもらえないとストレスになる

冷蔵庫の修理の件で
修理の人が料金について予想外のことをいうから
電気屋さんの保証内容を確認したくて
電話をした。
説明はしてくれるが
ポイントがずれて理解できず
あげくの果てには

約款に書いてありませんか?

これって、
さりげなくNGワードの域ではないかと
思いますよ。

お客様、確認してないんですか?
約款に書いてありますからうちに責任はないですよ。

と聞こえます。
でも、電話したときのわたしの心持ちは
そういうことじゃないんです。

出張費と工賃は無料というサービスに入っているのに
修理に来た人が、
出張費と工賃は負担して下さいっていうから、
今回特別保証が聞かない何かがあるのか、
保証がきかないことがあるのなら
例えばどんな時に実費がかかるのか教えてほしい、
ということだったのだけど。

ケンカ売ってんのか?
とも思いましたが
大人なので買いませんでした。

部署変えて3回電話したけど
なんだかすっきりせず、
でも、今回の修理は保証がきいて負担がなかったので
もういいや、と面倒になって、もやっとしたまま終了。

でも、やっぱり理解してもらえなかった気分は
もやっと気持ちに残るものです。


2011年7月16日土曜日

惑わされず良識に従って判断しなければならない

仕事をするときに

どんな状況においても
自分自身の良識に従って判断すること

ということが大事だと思っている。
これは、わたしのバイブル
『サービスが伝説になる時』
のなかに書かれていたことだ。

たとえば、
お客様が目の前で何か困っているのを見かける。
でも自分は今から社内の会議に行かなくてはならない。
そのとき、お客様に「いかがいたしましたか?」と
声をかけることができるか、ということだ。
この状況で、
自分自身の良識がお客様を優先できるかということだ。
そこで、お客様に声をかけたことによって
会議に遅れるかもしれない。
そして上司に怒られるかもしれない。
そこで判断を間違わないでいられるか、
ということだ。

自分の良識が間違っていなければ
会議に遅れたとて、そう怒られることはないだろう。
万が一その行動を責められるようであれば
会社(もしくは上司)の良識が狂っているのだ。
そのときには、
会社のトップの良識を確認するか
自分がその場を去るかになるだろう。

しかし、良識に従って判断するためには、
自分自身が「良識のある人」でなければならない。
自分の思う良識が、
会議に出ること、上司に怒られないことであったなら
自分の思う良識に従って判断したとて
何にもならない。
まずは、
自分の良識を磨くことが必要だ。

それは、おそらく仕事でなくてもいえることで
生きて行く上で大事なことのように思っている。

自分の思い込みで、自身の良識は狂ってはいないか。
周囲の環境の何かに惑わされることなく
正しい判断ができているだろうか。

2011年7月12日火曜日

ソイウイウモノニワタシハナリタイ

賢治の「雨ニモ負ケズ」が好きです。
あまりにも有名過ぎて
好きだというのが気恥ずかしい気もしますが
ここに込められている賢治の想いが
強く伝わってくるのです。

丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク決シテイカラズ
イツモシズカニワラッテイル

ここで賢治が描く人間像は
はじめは仏さんのような理想像だと思っていましたが、
実は、そういう完成された人間像ではなくて
逆に完成されていない悩み多き人間そのものの姿だ
と思うようになりました。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

様々なことに心痛めるも
何の解決のすべもなく、ただおろおろするばかりの
無力で小さな人間。
そして、その自分の無力さを自覚している人。
心痛めて涙を流すくらいしか自分にはできないのだと
悲しみを心に抱えて生きてゆける人。

ホメラレモセズクニモサレヌ
ソウイウモノニワタシハナリタイ

人に認められることを期待しない強さと
人に迷惑にならない頭の良さ。
そういう人になりたいと書く賢治はすごいと思います。
そして、その優しさと強さに圧倒されます。

わたしは、自分が浮かれそうになった時
この詩を思い出します。

ほんとうの強さとはなにか
ほんとうの優しさとはなにか
忘れてはいけないものが
ここにはあるように思えるのです。




2011年7月11日月曜日

慣れることと、慣れてはいけないことを見極める

慣れること、
というのは大事なことだとおもいます。
慣れることで
手際良くするすると事が進むようなことは多いし、
そこから工夫や効率化が生まれるのではないか、
とおもえるのです。
だから、
新しい環境や新しい仕事には
まずは慣れろ、なのだとおもっています。

しかしながら、
慣れてはいけないこともあるのではないかと
今日のニュースを見ておもいました。

震災から4ヶ月、
被災地の人たちは
どれだけの苦労と悲しみを抱いて暮らしてきたか
そして、これから先の不安を考えると
並大抵のものではないと
なんとも言いようがない気持ちになります。
毎日伝えられる
政治の混乱ぶりと
原発の目処の立たなさ
被災地の復旧計画の進まなさに
あきれながらもどこかで慣れてしまってはいないか
とふと自分の気持ちを振り返ってみたのでした。
慣れてしまうのは簡単で楽なことです。
でも、慣れてしまってはいけないとおもうのです。
自分はなにもできないとしても
この状況に慣れることなく
せめて心を痛め続けるしかないのではないか。
仕方ないな、などとは決して思うまい、と
あらためておもうのでした。

人はきっと慣れることに長けているのではないでしょうか。
慣れることで楽に生きてきたのかもしれません。
だからこそ、意識して慣れることも必要ですし、
逆に、意識して慣れないということも必要なのかもしれません。

どちらにしても惰性ではいけない。
こんなときこそ。

2011年7月10日日曜日

みなさん、わたしは元気です。

インターネットというツールは便利で、
電話より簡単なやり取りで用が済んでしまう。
だけど、
インターネットは便利な反面、
伝えることは簡単だけど
伝わっているかは甚だ疑問では?という
コミュニケーションツールとしてはどうなのかな、
という個人的な想いがありました。

けれども、
なんだかんだ言って、あたらしもの好きの私は
ホームページ、掲示板からブログ、ミクシィ、Twitter
といろいろ手を付けています。
そのなかで
実は、少ないながらも印象深い出会いがあるのでした。
それは、
顔も知らない人たちだけれども
その人たちの書くものから
なにか共感するものがあって
静かに繋がっているような感じ。
でも、そのサービスから遠のくと
繋がりも薄くなってくるような
ゆるやかな関係。

今回の震災で
そんな人たちから
心配のメールやメッセージがありました。
すっかりご無沙汰しているのに
仙台にあの人がいた、
と思い出してくれる人たちがいました。
大丈夫かな、
と心配してくれる人たちがいました。

驚きと同時に
繋がっていたんだな、といううれしさ。
そして、
インターネットというツールの可能性を
再確認するに至りました。
つまりは、
手法がなにかということではなく
どんなふうに時を刻んだか、
どんなふうに心に留まったか、
ということなのではないか、と
そんなことを考えました。

言葉で思いを伝えるのは難しいことです。
でも、
言葉で人は繋がるのだと
そう信じても良いのだろうと思っています。

今回の震災では
たくさんのひとの想いが
優しい言葉に乗って
私のもとに届きました。

仙台で
私は元気にしています。
ほんとうにありがとうございます。

2011年7月8日金曜日

どこにいたかではなく、そこで何を得たかということ

今までやってきたことの何が大事かといえば
どこにいたか、ということではなくて
そこで自分に何を培ってきたかというところ
だとおもう。

たとえば
大企業で働いていたとか
人を採用する立場だったとか
プロジェクトをまかされる立場だったとか
有名人と関わっていたとか
それはそれで、興味深いところもあるけれど
それがどうした?
なのだ。
社会的知名度や肩書き、立場は問題ではなく
そこでその人に備わったものが大事だとおもうんだ。

そこでどうした?
が大事なんだよなぁ。

だから、
外で働くということだけじゃなくて、
子育てやボランティアや歌や芝居でもスポーツでもなんでもよくて、
そのことに、どれほど真剣に向き合ったかということ、
つまりそこで、自分がどう成長したかということが
大事なところなんだとおもう。
そして、
それぞれが自分を作り上げてきた経験は
尊重されるべきことだとおもう。

仕事上で人と関わる時、
その人が今までやってきたことを尊重すべきだとおもっている。
逆に
今までやってきたことに囚われて
妙なプライドや思い込みで自分を縛らないようにしないといけない。

いずれにしても
内容ありき、ということなんだよなぁ。

重さというのはなかなかたいへんなもの

調子が悪いときはカラダが重く感じるし
ノリノリの時はカラダが軽くて浮くような感じで
重さというのはなかなかやりきれないものだ、
ということを池澤夏樹が書いていた。

確かに
重さと気持ちというのはかかわりあっているんだな。
気が重いからカラダも重いのか
カラダが重いから気も重いのか
どっちが先なんだろうね。

カラダが調子のいいときは
少々嫌なことにも耐えられるとか
カラダが調子悪ければ
ちょっとのことにもへこたれちゃうとか
気分がすこぶるいい時には
少々のカラダの不調も忘れちゃうとか
気分が重い時には
カラダの少しの不調も辛く感じるとか
要は、バランスの問題なのかなぁ。

こんなことをうだうだと書いているのは
ここのところカラダが重いことへの言いわけ。
で、当然のごとく気分も重いし頭も重い。
そして、思考も重い。

どっちが調子悪いのかなぁ。
カラダか?気分か?
と考えてみて、
ふと、
夏バテでは?
暑くてカラダが負けてる感じなんです。

あきらかに暑さに負けてる。

カラダが重いと、心も重いということだ。
ああ、そのとおり。
でも、まだ、夏、ではないんだよね?
夏のはじまり、なわけで
これから本格的にはじまる夏に向けてどうしたらいいんだろう
と、鈍い思考で途方に暮れる私です。

このまま負け続けるわけにはいかないけど、
このままでは負け続けてしまう予感です。

2011年7月5日火曜日

根底に流れる気持ちは必ず外にあらわれる

数日間の復興大臣のお粗末な様相は
なんともやりきれぬ思いだけを残し
夏の暑さの疲れとともに
身体にまとわりつく感じだ。

彼の言動は
国民をなぜあんなに不快な思いにさせたのか。

彼は、完全に上から目線だった。

上から目線、というのは
自分は高いところから見ているわけなので
当事者意識がないということだ。
自分は特別な高い位置にいるわけだから。
その気持ちが「お客が来た時には先に来て待っているべき」
という、自分を「お客さま」と勘違いしてしまう言動に
なったのではないだろうか。

もちろん、上からな気持ちなので
命令口調にもなるだろうし
〜してやる、〜してやらない、の口調にもなるだろうし、
とにかくエラそうなのだ。

自分としては
被災地のことを考えたからこその
叱咤激励のつもりなのかもしれないけれど、
そもそも、上から物を見ている段階で
被災地のところまで降りてきていないし
寄り添うなんてほど遠い。
そして、
偉い自分をお迎えをしないなんて失礼じゃないか
という見当はずれな話が一番重要なことのようになってしまう。

上から見下げられた私たちは
極めて不快な思いをし、
顔も見たくない、とおもった。

根底にある気持ちは、言葉や態度を通して
必ず外に出てくる。

自分の気持ちを正すことは、
どんなときでも大切なことなのかもしれない。
自分は上から目線になっていないか。



 ※応接室でお客様を出迎えなければならないということは
 必ずしも当てはまらないようにおもう。応接室に案内されて
 しばらくして迎える側の方があらわれるということは、
 ビジネス上珍しくはないことだとおもうのだが。
 その辺の違和感も不快さを増す原因なのかもしれない。

2011年7月3日日曜日

もっともらしい話にだまされない

世の中は舌先三寸
だまされてはいけない
オレオレ詐欺ではないけれど
もっともらしい話について
かんたんに右にならってはいけない
皆が右見ていても一度左も見て
それから自分で考えなくてはならない
考えることを怠けてはいけない

もしもそこで
違和感があったら
それを大事にしないといけない
その違和感が何なのか
その理由を考えないといけない

もっともらしい話は
もっともらしいところにあるから
気をつけなくてはならない

なぜ?と思ったら
かならず立ち止まって
考える時間を持つと良い

それは
自分自身も同じだ
自分がもっともらしいことを言い出したら
それが本当に自分の意見なのか
もう一度考えてみると良い
ほんとうに自信を持って言えることなのか
立ち止まって考えなくてはならない

自分が自信あり気なときは
なにに自信を持っているのか
自分に聞いてみると良い
きっとその自信は気のせいか勘違いに違いない

2011年6月28日火曜日

自分勝手に物を頼むべからず

若い頃
今日までに必ず仕上げてほしいと依頼をしておいて
自分はとっとと帰り出来上がった資料もしばらく放置の
上司がいた。
今週中に仕上げてほしいと依頼をして
次の週の半ばになってもお客さんに届けない
営業がいた。

何の為の期限なのかと問いただせば
本当は次の日必要だったのだけれど
次の日は会議やなんやかんやで確認する暇がなかった。
本当は月曜日にお客さんに届けなければいけなかったのだが
別のトラブルで身動きが取れなかった。
そんな言い訳をする。

おそらく本音は、
早めに仕上げてもらえれば自分が安心。
出来上がっていればいつでも使える(届けられる)。
それで
本当は期限がないものを勝手に近々の期限を決めて依頼する。

自分勝手。

依頼された側の予定を無視。
予定をやりくりして無理して仕上げた気持ちを無視。
自分だけが忙しい、たいへんなんだという傲慢さ。

若い頃は
怒り心頭でも居酒屋でくだを巻く程度だったが、
やっかいなのは、
本人は仕打ちとは思っていないので
若いわたしは、繰り返しそういう仕打ちをされるはめになる。

でも
意味のない自分勝手は許さない。
優しくない行為だ。
だけど、考えてみると
優しそうな風貌の人がこういう傾向にあった。
本人も自分は優しいタイプと思っている嫌いがあった。
でも、優しくないよ。
きっと、自分に甘いだけだ。

人に物を頼む時には
相手にもやるべきことがあることを認識すべき。
その上で、本当に必要な期日を決めるべき。
自分勝手になっていないかを時々振り返るべし。

2011年6月26日日曜日

クリエイティブとはなんですか?

どんなことにもクリエイティブであるということは
大切だと思うのです。
実際、クリエイティブな人というのは、
職業を問わずいるのです。
だいたいそういう人は、素敵な人の可能性が高いのです。
たとえば、営業でも、製造でも、事務仕事でも、
どんな仕事にも創造性は必要なのです。
その創造性のある仕事のしかたというのは、
その仕事の「深み」となるのではないかとおもうのです。
だから、
どんなかっこよさそうな職業に就いていたとしても
どんなに地位か高くても
その仕事ぶりがクリエイティブじゃない場合、
その人や仕事に魅力は感じられないというわけです。

これは、仕事だけに留まらないことで
生き方そのもののクリエイティブさ、
というものがあるのではないでしょうか。
それは、その人自身の「深み」になるのだとおもうのです。
そして、その人の「魅力」になるのだとおもうのです。

人にどう見えるかというよりも
毎日何を考えてどう行動するか
つまり、自分自身をどう生きるか、
ということなのだろうな、とおもうのです。
考えなしに人に流されない、
自分で考えて失敗しても
自分で考えて立て直せば
それがクリエイティブなんじゃないか
ともおもうのです。

深く味わいのある人生を生きていくために
努力しないと、ね。

2011年6月25日土曜日

わかりにくい話はやさしくない

すべらない話で千原ジュニアがMVSだった
話が洗練されてるなーと思う。
それで思い出したのだが、
いつだったか彼がテレビで
話がわかりにくいのはやさしくないと思う、
と言っていた。
エレベータに乗って話しだした時
相手が(もしくは自分が)エレベータを降りるときまでに
話が終わらなかったら、
相手に迷惑だろう、と。
簡潔にその時間内に終わる話を意識してする努力が必要だ
と言っていて、なるほど、とおもった。

わかりにくい話は優しくない。

相手を考えない話は優しくないってこと。
相手の状況、気持ち、テンション、興味、
話す時に相手を考えることが大事。
だから、面白くない話も迷惑だってことなんだ。

話すことを仕事にするなら
このくらいの心持ちと努力は必要だとおもう。

2011年6月22日水曜日

自分が信頼してもらえないと伝わらない

誰かに何かを伝えようとするとき
自分が信頼されないと
話は聞いてもらえない
本当に伝えたいことは伝わらない
まずは、相手に聞く耳を持ってもらうことだ。

信頼されるためには
あのひとにはかなわない
という何かを持つということだ。
へーそうなんだ、と納得する何かを持つということだ。
聞く側が一瞬でも尊敬できる何かを持つということだ。

なんでもいい。
たとえば知識、経験、努力、性格、面白さ、
どんなことでも良い。
だけれど、それは、もともと持ち得るものではなく
自分を磨いて出来たものでなくてはならない。
努力の跡にしか人は尊敬しないのではないかとおもう。

あの人が言うなら聞いてみよう、
あの人の言うことを聞いてみたい、
そこではじめて、
伝えたいことを伝えるスタートラインに立つのだとおもう。

自分を磨くことを怠ってはいけない。

2011年6月21日火曜日

不自由だからこそ自由に動ける


不自由な部分がないと自由になれない
不自由ななかにこそ自由がある

そこに自分の責任がないと
自由に動けない
自分で責任を抱えるということは
そこに不自由さがあるのだけれど
その不自由さがないと自由に動けない
よくも悪くもその結果が自分に帰ってくるという立場で
ようやく自由に動けるのではないか
と、おもう。

自分の行動や発言に責任を持つ人ほど
自由に動いているようにおもう
もしくは
自由に動いている人が
自分の行動や発言に責任を持つのか

自分で自分のことに責任を持つ覚悟がないと
本当の自由はない、
とおもう。



2011年6月20日月曜日

自分で考えないと、だれかのせいにしたくなる

昔、言われたこと。

やれない言い訳を考えるなら
どうやったらやれるのか考えろ。
・・・・・・・・・
仕事の意味を考えてやりなさい。
頼まれた仕事で意味のないものはやるな。
・・・・・・・・・
予算を出来るというのなら
その出来る根拠を言え。
予算に足りないなら
足りない分の数字を埋める方法を考えてから来い。

この3つ、それぞれ別々の場面で言われたものなんですが
けっこう自分の中に残っています。
こうして並べてみたら
これらはすべて
自分で考えろ、ということなんだ
と、今さらながら思いました。
自分で考えないと
どうしてもだれかのせいにしたくなる。
だから、必ず自分で考えて行動しろ、
ということなんだな。

若い頃に心に残ったものは
とても大事な気がする。
若い頃に言われたからこそ
先輩方が蒔いてくれた種が
今自分の中で育っているのではないかという気がする。

わたしは種を蒔くことができているのだろうか。

2011年6月19日日曜日

誰に頼まれたわけでもないのにやるのが好きなこと

高校の頃、
勉強もせずに毎日友だちと
交換新聞をしていた。
交換日記ではなく新聞。
わら半紙に手書きで新聞を書く。
今もときどきつぶやく「ことわざ」は
その時の名残です。
猫も歩けば犬も歩く、とかね。

大学では、
意味なく美術館に通い
空き地でスケッチしたり
ガラスに絵を描いたり
美術館をいつでもぶらぶらしていました。

なにやってんのかねー
無意味だねー
でも、それって、意味がなかったはずなのに
実は自分にしっかりと残ってる
ということに気づいてびっくり。

必要でないことをするというのは
大人になってからはなかなか出来ないけど
そんな時間はとても贅沢で
実はそれが自分の好きな物だったりするんだよね。

やらなきゃいけないものではなくて
誰に頼まれたわけでもないけどやりたいことを
やっていける大人になりたい。

もうすっかり大人だけど
そうなりたいです。

2011年6月18日土曜日

人の根っこはそうそう変わらないものなんだ

震災の次の日に予定していた高校の小さな同窓会。
3ヶ月越しにようやく実現。
みんな無事で何よりだけど、
あの大きな出来事でいろいろ変わった。
今の生活は不自由も減って以前と同じに近いけど
何かが明らかに違っている。
環境や感情や思うことが
以前とは全く変わっている。

でも、
根っこの部分は変わらない。
高校生のときと同じ。
根本の部分って変わらないもんなんだな。
その感じが、なんだか良かった。
少し安心した。
変わらないものがあるのって
安心だ。
ないもかもがこんなに変わってしまったなかで
変わらないものを見つけた時
なんだかちょっとほっとした。

今もいろいろ悩みや心配事があるけどさ、
高校の頃だって、その時の悩みがあったじゃないか。
今考えれば、たいしたことない悩みだったかもしれないけど
当時は全身で立ち向かってたじゃないか。
きっと、悩みの大きさは同じなんだ。
今、私たちがその場所にいないだけのこと。

元気で会えたら、それが一番。
よかった、みんな元気で乗り切っていて。
これからも悩み苦しみながら歩いて行こう。
そして、時々こうして会いましょう。

2011年6月17日金曜日

ただ会話を楽しむこと、最近ありますか?

毎日話をしているのに
こんなに話をしているのに
なぜか最近、話がしたいなぁ、と思う。

以前は無意味な話が多くて
そのへんにあったどうでも良いことやら
単なる言葉遊びやら
何の役にも立たないことを
もっとたくさん話していたような。
それがすこぶる楽しい時間で
わたしの燃料になっていたような気がする。

相逢不相識(あいおうてあいしらず)
共語不知名(ともにかたりてなをしらず)

お互いのことを何も知らないまま出会い語り合うこと
という意味の禅語です。

お互いの利害関係や立場関係なしで
ただ会話を楽しむだけの時間。
なんのためにとか、役に立つとか、
そんなことは気にしなくてもいい時間。
それをきっと「バカ話」という、のかな。
でも、そんな時間ほど楽しくて贅沢なんだなぁ、
としみじみ思う。
そんな話ができる人がいたら大事にしなきゃいけません。

名を知らぬ人でなくても良いから
とにかくバカ話に花を咲かせて
わはは、とやりたい。

仕事のことや人間関係や自分の不平不満抜きで
ただ話を楽しむこと、
なんだかわけがわからんが面白かったなー
と思える時間、
これはちょっとしたアドバイスなんかより力になりますぞ。

2011年6月15日水曜日

いつでも当事者であれ

政治家の方々の頼りなさばかりが目立つ
今日この頃です。
この違和感の根本は
当事者意識の欠如、のような気がしてなりません。
被災地は自分たちと別のところ、
とおもっているように見えてしまうのです。
だから、切迫感がない。
何より優先しようという姿勢が見えない。
ある意味日本全体が危機的状況ともいえるこの状況で
政治家が当事者意識がないというのは
極めて頼りないことで、残念なことです。

この当事者意識というのはとても大事です。
たとえば仕事を頼まれたとして
それを自分のなかに引っ張り込んで
自分の仕事として取り組まないと
単なる頼まれ仕事の域を超えません。
第三者として眺めているだけでは
苦労も少ないかもしれませんが
面白みもありません。
当事者意識を持って何かをしようとするということは
全てを自分で引き受ける覚悟をするということです。
成功も失敗も、自分の発言も行動も、
自分で責任を持つということです。
だから、悩みも苦しみも多いのです。
でも、
自分のこととして真剣に取り組んでいると
きっと助けてくれる人があらわれる。
その姿に共感する人が必ず出てくるのです。
そんなもんです。
自分の中に引っ張り込んでしっかり向き合うことが
何においても大事だと思っているのです。

2011年6月14日火曜日

自分の容量がいっぱいだとおもった時点で終わっちゃいます


たとえば、何か仕事を頼まれたとして
自分の処理能力より多い物だった場合
無理して(かなり無理をするかもしれない)仕上げたとします。
次に同じ量の仕事が来た時
はじめに苦労したほどではなくなるとおもうんです。

落ち葉の袋詰めの理論、
というわたしの勝手な持論です。
袋に落ち葉を集めていっぱいになったところで
トントンと整えると
入る場所が出来る、というあれです。

自分の容量いっぱいだとおもうことでも
トントンと袋をすると
まだ入っちゃうんです。
仕事だけじゃなくて、
自分の容量って、そうやって増やせるものなんじゃないか
と思うのです。
自分が、もういっぱいだ、とおもった時点で終わっちゃう。
トントンとするのが、挑戦してみるということなんじゃないかな。

落ち葉は、
3、4回トントンとするといっぱいになっちゃうけど
自分の中の袋は、何回トントンとやっても
早々壊れるものではないようです。

わたしもトントンと整えて明日に向かいますか。



2011年6月13日月曜日

それは自分の全てではないけれど、その場所では自分の全力で。


やりたいことだけやっていいよ、
といわれたとして、
さて自分のやりたいことってなんだろう。
「だけ」というからには、
ひとつのことを継続的にということなんだろうが
そうおもえるほどやりたいことがみつからない。
たとえば
スポーツや芝居や、歌や、絵など一芸に秀でた人が
そのひとつのことに懸ける、
全てをそのやりたいことだけに集中する、
ということはあるけれど、
わたしなんか40年以上も生きてきて
好きなことはそこそこあるけれど
ひとつ「これだけ」のものはみつからない。
若い頃は、自分の「これだけ」を探そうとしていたのだけれど
みつかることなくここまできちゃった。
で、最近ふと考えた。
そもそも、ないんじゃないの?「これだけ」のものなんて。

考えてみたら、
小規模のやりたいことは、いつでもそこそこある。
で、仕事をしたり、家で暮らしたりしながら生活している。
そのなかで、善かれ悪しかれがんばっちゃうこともある。
っていうことは、
そこそこ好きなことや興味のあるものが混じっているこの生活そのものが
わたしのやりたいことなんじゃないだろうか。
自分が居る場所場所で、
それぞれの自分が「こうしたい」「ああしたい」とおもいながらやってる。

その場は自分の全てではないけれど、
その場所では自分の全力で。

小分け袋みたいな「やりたいこと」。
いろいろ袋を持っているので、
邪魔になることもあるかもしれない。
整理や調整も必要かもしれない。
でも、その不自由さも含めて、
全部ひっくるめての自分だからしかたない。
だけど、その袋の中では自由に動ける。
で、自分はその袋ひとつだけじゃないから
もしその袋ひとつがポシャってしまっても
自分はなくならない。
袋は他にもあるし、
新しい袋を膨らましても良いしね。
でも、言っておくけど、
はじめから逃げとか軽いというわけではなくて
基本全力投球。その場では。
ただ追いつめられていると自由になれないからね。

そう考えると
自分の持っているバランスが説明できるような気がした。
だったら、やりたいことさがしはおしまい。
やりたくないことリストでもか考えてみようかな。


2011年6月12日日曜日

出来ない理由を言うな、出来る方法を考えろ

出来ない理由を探すくらいなら
どうすればできるか考えろ

と、誰かが言ってたのを聞いて
ペン立てに
出来ない理由を言うな
出来る方法を考えろ
と貼っていました。
10年も前の若かりし頃の話ですが。

誰が言ってたのか(上司の誰かだろうと思うが)
さえ忘れておいてなんですが
今もわたしの信条のひとつです。

無理だ、と思うことは日常的に山ほどありますが
まあそうはいってもやらなきゃならないのなら
どうしたら出来る可能性は高いかを考えてみます。
考えるだけだったら特に損もしないし。

そういえば、ペン立てに張り紙をしていた頃
どうしてもシェアをのばせず
だめもとで「お金と人力があったらできる」と言って
支店長から予算と人をもらったことがありましたっけ。
出来る方法を考えていると
そんな奇跡にも巡りあえたりするわけです。

できなそうなことは日々目の前に積まれています。
一個一個出来る方法を考えるしかないです。
そして、できることからやってみるしかないと思っています。

2011年6月11日土曜日

更地になったところからはじめてみようとおもいます


3月11日から3ヶ月。
あの日以来、
ことばがうまくみつからないような気がしています。

ことばなんかでいいあらわすことのできない
事実と感情。
何を言おうとしてもだめなような気がしました。
ことばが空虚に感じられて
何かを書くことも
本を読むこともできず。

だけど
そろそろことばを循環させないと
淀んでしまいそうだとおもいました。

わたしの仕事はことばが商売道具。
伝えることが仕事なのだから
インプットとアウトプットをバランス良く
循環させていきましょう。
すこしずつでも。

自分の中のことばを循環させ
そして中と外との循環も
以前の通りというわけにはいかないのかもしれませんが
誰かに伝えたい何かをどう表現するか
ということをまた考えはじめようとおもいました。
一からはじめるつもりで
今の自分が伝えたいことをすこしずつでも。

そういうわけで
きょうから日記を書くことにしました。