2011年6月28日火曜日

自分勝手に物を頼むべからず

若い頃
今日までに必ず仕上げてほしいと依頼をしておいて
自分はとっとと帰り出来上がった資料もしばらく放置の
上司がいた。
今週中に仕上げてほしいと依頼をして
次の週の半ばになってもお客さんに届けない
営業がいた。

何の為の期限なのかと問いただせば
本当は次の日必要だったのだけれど
次の日は会議やなんやかんやで確認する暇がなかった。
本当は月曜日にお客さんに届けなければいけなかったのだが
別のトラブルで身動きが取れなかった。
そんな言い訳をする。

おそらく本音は、
早めに仕上げてもらえれば自分が安心。
出来上がっていればいつでも使える(届けられる)。
それで
本当は期限がないものを勝手に近々の期限を決めて依頼する。

自分勝手。

依頼された側の予定を無視。
予定をやりくりして無理して仕上げた気持ちを無視。
自分だけが忙しい、たいへんなんだという傲慢さ。

若い頃は
怒り心頭でも居酒屋でくだを巻く程度だったが、
やっかいなのは、
本人は仕打ちとは思っていないので
若いわたしは、繰り返しそういう仕打ちをされるはめになる。

でも
意味のない自分勝手は許さない。
優しくない行為だ。
だけど、考えてみると
優しそうな風貌の人がこういう傾向にあった。
本人も自分は優しいタイプと思っている嫌いがあった。
でも、優しくないよ。
きっと、自分に甘いだけだ。

人に物を頼む時には
相手にもやるべきことがあることを認識すべき。
その上で、本当に必要な期日を決めるべき。
自分勝手になっていないかを時々振り返るべし。

2011年6月26日日曜日

クリエイティブとはなんですか?

どんなことにもクリエイティブであるということは
大切だと思うのです。
実際、クリエイティブな人というのは、
職業を問わずいるのです。
だいたいそういう人は、素敵な人の可能性が高いのです。
たとえば、営業でも、製造でも、事務仕事でも、
どんな仕事にも創造性は必要なのです。
その創造性のある仕事のしかたというのは、
その仕事の「深み」となるのではないかとおもうのです。
だから、
どんなかっこよさそうな職業に就いていたとしても
どんなに地位か高くても
その仕事ぶりがクリエイティブじゃない場合、
その人や仕事に魅力は感じられないというわけです。

これは、仕事だけに留まらないことで
生き方そのもののクリエイティブさ、
というものがあるのではないでしょうか。
それは、その人自身の「深み」になるのだとおもうのです。
そして、その人の「魅力」になるのだとおもうのです。

人にどう見えるかというよりも
毎日何を考えてどう行動するか
つまり、自分自身をどう生きるか、
ということなのだろうな、とおもうのです。
考えなしに人に流されない、
自分で考えて失敗しても
自分で考えて立て直せば
それがクリエイティブなんじゃないか
ともおもうのです。

深く味わいのある人生を生きていくために
努力しないと、ね。

2011年6月25日土曜日

わかりにくい話はやさしくない

すべらない話で千原ジュニアがMVSだった
話が洗練されてるなーと思う。
それで思い出したのだが、
いつだったか彼がテレビで
話がわかりにくいのはやさしくないと思う、
と言っていた。
エレベータに乗って話しだした時
相手が(もしくは自分が)エレベータを降りるときまでに
話が終わらなかったら、
相手に迷惑だろう、と。
簡潔にその時間内に終わる話を意識してする努力が必要だ
と言っていて、なるほど、とおもった。

わかりにくい話は優しくない。

相手を考えない話は優しくないってこと。
相手の状況、気持ち、テンション、興味、
話す時に相手を考えることが大事。
だから、面白くない話も迷惑だってことなんだ。

話すことを仕事にするなら
このくらいの心持ちと努力は必要だとおもう。

2011年6月22日水曜日

自分が信頼してもらえないと伝わらない

誰かに何かを伝えようとするとき
自分が信頼されないと
話は聞いてもらえない
本当に伝えたいことは伝わらない
まずは、相手に聞く耳を持ってもらうことだ。

信頼されるためには
あのひとにはかなわない
という何かを持つということだ。
へーそうなんだ、と納得する何かを持つということだ。
聞く側が一瞬でも尊敬できる何かを持つということだ。

なんでもいい。
たとえば知識、経験、努力、性格、面白さ、
どんなことでも良い。
だけれど、それは、もともと持ち得るものではなく
自分を磨いて出来たものでなくてはならない。
努力の跡にしか人は尊敬しないのではないかとおもう。

あの人が言うなら聞いてみよう、
あの人の言うことを聞いてみたい、
そこではじめて、
伝えたいことを伝えるスタートラインに立つのだとおもう。

自分を磨くことを怠ってはいけない。

2011年6月21日火曜日

不自由だからこそ自由に動ける


不自由な部分がないと自由になれない
不自由ななかにこそ自由がある

そこに自分の責任がないと
自由に動けない
自分で責任を抱えるということは
そこに不自由さがあるのだけれど
その不自由さがないと自由に動けない
よくも悪くもその結果が自分に帰ってくるという立場で
ようやく自由に動けるのではないか
と、おもう。

自分の行動や発言に責任を持つ人ほど
自由に動いているようにおもう
もしくは
自由に動いている人が
自分の行動や発言に責任を持つのか

自分で自分のことに責任を持つ覚悟がないと
本当の自由はない、
とおもう。



2011年6月20日月曜日

自分で考えないと、だれかのせいにしたくなる

昔、言われたこと。

やれない言い訳を考えるなら
どうやったらやれるのか考えろ。
・・・・・・・・・
仕事の意味を考えてやりなさい。
頼まれた仕事で意味のないものはやるな。
・・・・・・・・・
予算を出来るというのなら
その出来る根拠を言え。
予算に足りないなら
足りない分の数字を埋める方法を考えてから来い。

この3つ、それぞれ別々の場面で言われたものなんですが
けっこう自分の中に残っています。
こうして並べてみたら
これらはすべて
自分で考えろ、ということなんだ
と、今さらながら思いました。
自分で考えないと
どうしてもだれかのせいにしたくなる。
だから、必ず自分で考えて行動しろ、
ということなんだな。

若い頃に心に残ったものは
とても大事な気がする。
若い頃に言われたからこそ
先輩方が蒔いてくれた種が
今自分の中で育っているのではないかという気がする。

わたしは種を蒔くことができているのだろうか。

2011年6月19日日曜日

誰に頼まれたわけでもないのにやるのが好きなこと

高校の頃、
勉強もせずに毎日友だちと
交換新聞をしていた。
交換日記ではなく新聞。
わら半紙に手書きで新聞を書く。
今もときどきつぶやく「ことわざ」は
その時の名残です。
猫も歩けば犬も歩く、とかね。

大学では、
意味なく美術館に通い
空き地でスケッチしたり
ガラスに絵を描いたり
美術館をいつでもぶらぶらしていました。

なにやってんのかねー
無意味だねー
でも、それって、意味がなかったはずなのに
実は自分にしっかりと残ってる
ということに気づいてびっくり。

必要でないことをするというのは
大人になってからはなかなか出来ないけど
そんな時間はとても贅沢で
実はそれが自分の好きな物だったりするんだよね。

やらなきゃいけないものではなくて
誰に頼まれたわけでもないけどやりたいことを
やっていける大人になりたい。

もうすっかり大人だけど
そうなりたいです。

2011年6月18日土曜日

人の根っこはそうそう変わらないものなんだ

震災の次の日に予定していた高校の小さな同窓会。
3ヶ月越しにようやく実現。
みんな無事で何よりだけど、
あの大きな出来事でいろいろ変わった。
今の生活は不自由も減って以前と同じに近いけど
何かが明らかに違っている。
環境や感情や思うことが
以前とは全く変わっている。

でも、
根っこの部分は変わらない。
高校生のときと同じ。
根本の部分って変わらないもんなんだな。
その感じが、なんだか良かった。
少し安心した。
変わらないものがあるのって
安心だ。
ないもかもがこんなに変わってしまったなかで
変わらないものを見つけた時
なんだかちょっとほっとした。

今もいろいろ悩みや心配事があるけどさ、
高校の頃だって、その時の悩みがあったじゃないか。
今考えれば、たいしたことない悩みだったかもしれないけど
当時は全身で立ち向かってたじゃないか。
きっと、悩みの大きさは同じなんだ。
今、私たちがその場所にいないだけのこと。

元気で会えたら、それが一番。
よかった、みんな元気で乗り切っていて。
これからも悩み苦しみながら歩いて行こう。
そして、時々こうして会いましょう。

2011年6月17日金曜日

ただ会話を楽しむこと、最近ありますか?

毎日話をしているのに
こんなに話をしているのに
なぜか最近、話がしたいなぁ、と思う。

以前は無意味な話が多くて
そのへんにあったどうでも良いことやら
単なる言葉遊びやら
何の役にも立たないことを
もっとたくさん話していたような。
それがすこぶる楽しい時間で
わたしの燃料になっていたような気がする。

相逢不相識(あいおうてあいしらず)
共語不知名(ともにかたりてなをしらず)

お互いのことを何も知らないまま出会い語り合うこと
という意味の禅語です。

お互いの利害関係や立場関係なしで
ただ会話を楽しむだけの時間。
なんのためにとか、役に立つとか、
そんなことは気にしなくてもいい時間。
それをきっと「バカ話」という、のかな。
でも、そんな時間ほど楽しくて贅沢なんだなぁ、
としみじみ思う。
そんな話ができる人がいたら大事にしなきゃいけません。

名を知らぬ人でなくても良いから
とにかくバカ話に花を咲かせて
わはは、とやりたい。

仕事のことや人間関係や自分の不平不満抜きで
ただ話を楽しむこと、
なんだかわけがわからんが面白かったなー
と思える時間、
これはちょっとしたアドバイスなんかより力になりますぞ。

2011年6月15日水曜日

いつでも当事者であれ

政治家の方々の頼りなさばかりが目立つ
今日この頃です。
この違和感の根本は
当事者意識の欠如、のような気がしてなりません。
被災地は自分たちと別のところ、
とおもっているように見えてしまうのです。
だから、切迫感がない。
何より優先しようという姿勢が見えない。
ある意味日本全体が危機的状況ともいえるこの状況で
政治家が当事者意識がないというのは
極めて頼りないことで、残念なことです。

この当事者意識というのはとても大事です。
たとえば仕事を頼まれたとして
それを自分のなかに引っ張り込んで
自分の仕事として取り組まないと
単なる頼まれ仕事の域を超えません。
第三者として眺めているだけでは
苦労も少ないかもしれませんが
面白みもありません。
当事者意識を持って何かをしようとするということは
全てを自分で引き受ける覚悟をするということです。
成功も失敗も、自分の発言も行動も、
自分で責任を持つということです。
だから、悩みも苦しみも多いのです。
でも、
自分のこととして真剣に取り組んでいると
きっと助けてくれる人があらわれる。
その姿に共感する人が必ず出てくるのです。
そんなもんです。
自分の中に引っ張り込んでしっかり向き合うことが
何においても大事だと思っているのです。

2011年6月14日火曜日

自分の容量がいっぱいだとおもった時点で終わっちゃいます


たとえば、何か仕事を頼まれたとして
自分の処理能力より多い物だった場合
無理して(かなり無理をするかもしれない)仕上げたとします。
次に同じ量の仕事が来た時
はじめに苦労したほどではなくなるとおもうんです。

落ち葉の袋詰めの理論、
というわたしの勝手な持論です。
袋に落ち葉を集めていっぱいになったところで
トントンと整えると
入る場所が出来る、というあれです。

自分の容量いっぱいだとおもうことでも
トントンと袋をすると
まだ入っちゃうんです。
仕事だけじゃなくて、
自分の容量って、そうやって増やせるものなんじゃないか
と思うのです。
自分が、もういっぱいだ、とおもった時点で終わっちゃう。
トントンとするのが、挑戦してみるということなんじゃないかな。

落ち葉は、
3、4回トントンとするといっぱいになっちゃうけど
自分の中の袋は、何回トントンとやっても
早々壊れるものではないようです。

わたしもトントンと整えて明日に向かいますか。



2011年6月13日月曜日

それは自分の全てではないけれど、その場所では自分の全力で。


やりたいことだけやっていいよ、
といわれたとして、
さて自分のやりたいことってなんだろう。
「だけ」というからには、
ひとつのことを継続的にということなんだろうが
そうおもえるほどやりたいことがみつからない。
たとえば
スポーツや芝居や、歌や、絵など一芸に秀でた人が
そのひとつのことに懸ける、
全てをそのやりたいことだけに集中する、
ということはあるけれど、
わたしなんか40年以上も生きてきて
好きなことはそこそこあるけれど
ひとつ「これだけ」のものはみつからない。
若い頃は、自分の「これだけ」を探そうとしていたのだけれど
みつかることなくここまできちゃった。
で、最近ふと考えた。
そもそも、ないんじゃないの?「これだけ」のものなんて。

考えてみたら、
小規模のやりたいことは、いつでもそこそこある。
で、仕事をしたり、家で暮らしたりしながら生活している。
そのなかで、善かれ悪しかれがんばっちゃうこともある。
っていうことは、
そこそこ好きなことや興味のあるものが混じっているこの生活そのものが
わたしのやりたいことなんじゃないだろうか。
自分が居る場所場所で、
それぞれの自分が「こうしたい」「ああしたい」とおもいながらやってる。

その場は自分の全てではないけれど、
その場所では自分の全力で。

小分け袋みたいな「やりたいこと」。
いろいろ袋を持っているので、
邪魔になることもあるかもしれない。
整理や調整も必要かもしれない。
でも、その不自由さも含めて、
全部ひっくるめての自分だからしかたない。
だけど、その袋の中では自由に動ける。
で、自分はその袋ひとつだけじゃないから
もしその袋ひとつがポシャってしまっても
自分はなくならない。
袋は他にもあるし、
新しい袋を膨らましても良いしね。
でも、言っておくけど、
はじめから逃げとか軽いというわけではなくて
基本全力投球。その場では。
ただ追いつめられていると自由になれないからね。

そう考えると
自分の持っているバランスが説明できるような気がした。
だったら、やりたいことさがしはおしまい。
やりたくないことリストでもか考えてみようかな。


2011年6月12日日曜日

出来ない理由を言うな、出来る方法を考えろ

出来ない理由を探すくらいなら
どうすればできるか考えろ

と、誰かが言ってたのを聞いて
ペン立てに
出来ない理由を言うな
出来る方法を考えろ
と貼っていました。
10年も前の若かりし頃の話ですが。

誰が言ってたのか(上司の誰かだろうと思うが)
さえ忘れておいてなんですが
今もわたしの信条のひとつです。

無理だ、と思うことは日常的に山ほどありますが
まあそうはいってもやらなきゃならないのなら
どうしたら出来る可能性は高いかを考えてみます。
考えるだけだったら特に損もしないし。

そういえば、ペン立てに張り紙をしていた頃
どうしてもシェアをのばせず
だめもとで「お金と人力があったらできる」と言って
支店長から予算と人をもらったことがありましたっけ。
出来る方法を考えていると
そんな奇跡にも巡りあえたりするわけです。

できなそうなことは日々目の前に積まれています。
一個一個出来る方法を考えるしかないです。
そして、できることからやってみるしかないと思っています。

2011年6月11日土曜日

更地になったところからはじめてみようとおもいます


3月11日から3ヶ月。
あの日以来、
ことばがうまくみつからないような気がしています。

ことばなんかでいいあらわすことのできない
事実と感情。
何を言おうとしてもだめなような気がしました。
ことばが空虚に感じられて
何かを書くことも
本を読むこともできず。

だけど
そろそろことばを循環させないと
淀んでしまいそうだとおもいました。

わたしの仕事はことばが商売道具。
伝えることが仕事なのだから
インプットとアウトプットをバランス良く
循環させていきましょう。
すこしずつでも。

自分の中のことばを循環させ
そして中と外との循環も
以前の通りというわけにはいかないのかもしれませんが
誰かに伝えたい何かをどう表現するか
ということをまた考えはじめようとおもいました。
一からはじめるつもりで
今の自分が伝えたいことをすこしずつでも。

そういうわけで
きょうから日記を書くことにしました。