2011年7月31日日曜日

自分が必要とされているかがいつも気になっていた。

以前の職場で、
その当時若手だった人たちで集まろうか
という話になった。
かつて20代から30代の若手と呼ばれていた人たち。
当然、今集まったらすでに40、50ですから
ちっとも若くはない。
というわけだから、
「かつて若手だったの会」
という飲み会になりそうな模様。

そんなことで、
ここのところ、20代30代の自分をふと思い返している。

20代から30代前半。
自分の居場所を確保する為に
自分の仕事の幅を広げていたような気がする。
営業しながらパソコンで営業資料をつくるとか
自分の担当の他に新規事業の担当をするとか
担当エリアを一つ増やすとか
本筋のところでの不足分をなにかで穴埋めをする
という方法で自分を認めてもらおうとしていた。

たしかに
その場で自分が働き続けたいのであれば
必要だと思ってもらう為に
なんらかの努力をすることは必要だ。
現に、私は不必要だとは思われることなく
働き続けることができた。
だから、間違いではなかったと思っている。

しかし、必要とされていたのか、と考えると
いないと不便、
その言葉がぴったりのような気がする。
いないと不便止まり。
それは、必要とされている、ということなのだろうか。
少しだけニュアンスが違う、
そう思う。
きっと、それは本業をめいっぱいではなく、
穴埋めになにかを追加して帳尻をあわせていたことが
原因ではないかと思った。

その時の自分を否定するわけではない。
それが精一杯だったと思うし
それしか出来なかったのだと思う。
でも、今、
本業で勝負してみたいと思う。
何かを追加する癖は今でも抜けていないけれど
本業をあきらめず極めたいものだ、と
考えている40代です。

若いときは若いときのがんばりかた、
それなりの経験を積んだらそれなりのがんばりかたが
あるんじゃないかな、と思ったりするわけです。
あの頃のような体力はないし、
でもずうずうしさは手に入れたし、ね。


2011年7月25日月曜日

自分の中の整理整頓が必要だ

どうも自分がいっぱいいっぱいになった
と思ったら、
きっと整理整頓が必要なときです。
自分の中でいろんなことが散らばって
ゴタゴタになっているので
効率も極度に悪くなります。
私はそんなに器用ではないので
考えながら整理整頓が出来る質ではありません。
一回立ち止まって整理しないとだめなんです。

でも、
自分のなかで整理できたら
物事8割方出来たと思ってもいいのではないでしょうか。
整理することは理解することのような気がします。
整理することによって
漠然としていたものが
はっきりとした具体的なものになっていく。
漠然としているから整理が出来ず
もやもやしてわからないことが
頭の中に詰ってしまうから
物事は進まず、不安にもなる。

忙しいときほど
時間がないと思うときほど
立ち止まったほうが良いのかもしれない。

具体的にすること、
前に進むための一番重要なこと。

今、私自身が整理整頓が必要なとき。
棚卸をしよう。

2011年7月18日月曜日

理解してもらえないとストレスになる

冷蔵庫の修理の件で
修理の人が料金について予想外のことをいうから
電気屋さんの保証内容を確認したくて
電話をした。
説明はしてくれるが
ポイントがずれて理解できず
あげくの果てには

約款に書いてありませんか?

これって、
さりげなくNGワードの域ではないかと
思いますよ。

お客様、確認してないんですか?
約款に書いてありますからうちに責任はないですよ。

と聞こえます。
でも、電話したときのわたしの心持ちは
そういうことじゃないんです。

出張費と工賃は無料というサービスに入っているのに
修理に来た人が、
出張費と工賃は負担して下さいっていうから、
今回特別保証が聞かない何かがあるのか、
保証がきかないことがあるのなら
例えばどんな時に実費がかかるのか教えてほしい、
ということだったのだけど。

ケンカ売ってんのか?
とも思いましたが
大人なので買いませんでした。

部署変えて3回電話したけど
なんだかすっきりせず、
でも、今回の修理は保証がきいて負担がなかったので
もういいや、と面倒になって、もやっとしたまま終了。

でも、やっぱり理解してもらえなかった気分は
もやっと気持ちに残るものです。


2011年7月16日土曜日

惑わされず良識に従って判断しなければならない

仕事をするときに

どんな状況においても
自分自身の良識に従って判断すること

ということが大事だと思っている。
これは、わたしのバイブル
『サービスが伝説になる時』
のなかに書かれていたことだ。

たとえば、
お客様が目の前で何か困っているのを見かける。
でも自分は今から社内の会議に行かなくてはならない。
そのとき、お客様に「いかがいたしましたか?」と
声をかけることができるか、ということだ。
この状況で、
自分自身の良識がお客様を優先できるかということだ。
そこで、お客様に声をかけたことによって
会議に遅れるかもしれない。
そして上司に怒られるかもしれない。
そこで判断を間違わないでいられるか、
ということだ。

自分の良識が間違っていなければ
会議に遅れたとて、そう怒られることはないだろう。
万が一その行動を責められるようであれば
会社(もしくは上司)の良識が狂っているのだ。
そのときには、
会社のトップの良識を確認するか
自分がその場を去るかになるだろう。

しかし、良識に従って判断するためには、
自分自身が「良識のある人」でなければならない。
自分の思う良識が、
会議に出ること、上司に怒られないことであったなら
自分の思う良識に従って判断したとて
何にもならない。
まずは、
自分の良識を磨くことが必要だ。

それは、おそらく仕事でなくてもいえることで
生きて行く上で大事なことのように思っている。

自分の思い込みで、自身の良識は狂ってはいないか。
周囲の環境の何かに惑わされることなく
正しい判断ができているだろうか。

2011年7月12日火曜日

ソイウイウモノニワタシハナリタイ

賢治の「雨ニモ負ケズ」が好きです。
あまりにも有名過ぎて
好きだというのが気恥ずかしい気もしますが
ここに込められている賢治の想いが
強く伝わってくるのです。

丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク決シテイカラズ
イツモシズカニワラッテイル

ここで賢治が描く人間像は
はじめは仏さんのような理想像だと思っていましたが、
実は、そういう完成された人間像ではなくて
逆に完成されていない悩み多き人間そのものの姿だ
と思うようになりました。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

様々なことに心痛めるも
何の解決のすべもなく、ただおろおろするばかりの
無力で小さな人間。
そして、その自分の無力さを自覚している人。
心痛めて涙を流すくらいしか自分にはできないのだと
悲しみを心に抱えて生きてゆける人。

ホメラレモセズクニモサレヌ
ソウイウモノニワタシハナリタイ

人に認められることを期待しない強さと
人に迷惑にならない頭の良さ。
そういう人になりたいと書く賢治はすごいと思います。
そして、その優しさと強さに圧倒されます。

わたしは、自分が浮かれそうになった時
この詩を思い出します。

ほんとうの強さとはなにか
ほんとうの優しさとはなにか
忘れてはいけないものが
ここにはあるように思えるのです。




2011年7月11日月曜日

慣れることと、慣れてはいけないことを見極める

慣れること、
というのは大事なことだとおもいます。
慣れることで
手際良くするすると事が進むようなことは多いし、
そこから工夫や効率化が生まれるのではないか、
とおもえるのです。
だから、
新しい環境や新しい仕事には
まずは慣れろ、なのだとおもっています。

しかしながら、
慣れてはいけないこともあるのではないかと
今日のニュースを見ておもいました。

震災から4ヶ月、
被災地の人たちは
どれだけの苦労と悲しみを抱いて暮らしてきたか
そして、これから先の不安を考えると
並大抵のものではないと
なんとも言いようがない気持ちになります。
毎日伝えられる
政治の混乱ぶりと
原発の目処の立たなさ
被災地の復旧計画の進まなさに
あきれながらもどこかで慣れてしまってはいないか
とふと自分の気持ちを振り返ってみたのでした。
慣れてしまうのは簡単で楽なことです。
でも、慣れてしまってはいけないとおもうのです。
自分はなにもできないとしても
この状況に慣れることなく
せめて心を痛め続けるしかないのではないか。
仕方ないな、などとは決して思うまい、と
あらためておもうのでした。

人はきっと慣れることに長けているのではないでしょうか。
慣れることで楽に生きてきたのかもしれません。
だからこそ、意識して慣れることも必要ですし、
逆に、意識して慣れないということも必要なのかもしれません。

どちらにしても惰性ではいけない。
こんなときこそ。

2011年7月10日日曜日

みなさん、わたしは元気です。

インターネットというツールは便利で、
電話より簡単なやり取りで用が済んでしまう。
だけど、
インターネットは便利な反面、
伝えることは簡単だけど
伝わっているかは甚だ疑問では?という
コミュニケーションツールとしてはどうなのかな、
という個人的な想いがありました。

けれども、
なんだかんだ言って、あたらしもの好きの私は
ホームページ、掲示板からブログ、ミクシィ、Twitter
といろいろ手を付けています。
そのなかで
実は、少ないながらも印象深い出会いがあるのでした。
それは、
顔も知らない人たちだけれども
その人たちの書くものから
なにか共感するものがあって
静かに繋がっているような感じ。
でも、そのサービスから遠のくと
繋がりも薄くなってくるような
ゆるやかな関係。

今回の震災で
そんな人たちから
心配のメールやメッセージがありました。
すっかりご無沙汰しているのに
仙台にあの人がいた、
と思い出してくれる人たちがいました。
大丈夫かな、
と心配してくれる人たちがいました。

驚きと同時に
繋がっていたんだな、といううれしさ。
そして、
インターネットというツールの可能性を
再確認するに至りました。
つまりは、
手法がなにかということではなく
どんなふうに時を刻んだか、
どんなふうに心に留まったか、
ということなのではないか、と
そんなことを考えました。

言葉で思いを伝えるのは難しいことです。
でも、
言葉で人は繋がるのだと
そう信じても良いのだろうと思っています。

今回の震災では
たくさんのひとの想いが
優しい言葉に乗って
私のもとに届きました。

仙台で
私は元気にしています。
ほんとうにありがとうございます。

2011年7月8日金曜日

どこにいたかではなく、そこで何を得たかということ

今までやってきたことの何が大事かといえば
どこにいたか、ということではなくて
そこで自分に何を培ってきたかというところ
だとおもう。

たとえば
大企業で働いていたとか
人を採用する立場だったとか
プロジェクトをまかされる立場だったとか
有名人と関わっていたとか
それはそれで、興味深いところもあるけれど
それがどうした?
なのだ。
社会的知名度や肩書き、立場は問題ではなく
そこでその人に備わったものが大事だとおもうんだ。

そこでどうした?
が大事なんだよなぁ。

だから、
外で働くということだけじゃなくて、
子育てやボランティアや歌や芝居でもスポーツでもなんでもよくて、
そのことに、どれほど真剣に向き合ったかということ、
つまりそこで、自分がどう成長したかということが
大事なところなんだとおもう。
そして、
それぞれが自分を作り上げてきた経験は
尊重されるべきことだとおもう。

仕事上で人と関わる時、
その人が今までやってきたことを尊重すべきだとおもっている。
逆に
今までやってきたことに囚われて
妙なプライドや思い込みで自分を縛らないようにしないといけない。

いずれにしても
内容ありき、ということなんだよなぁ。

重さというのはなかなかたいへんなもの

調子が悪いときはカラダが重く感じるし
ノリノリの時はカラダが軽くて浮くような感じで
重さというのはなかなかやりきれないものだ、
ということを池澤夏樹が書いていた。

確かに
重さと気持ちというのはかかわりあっているんだな。
気が重いからカラダも重いのか
カラダが重いから気も重いのか
どっちが先なんだろうね。

カラダが調子のいいときは
少々嫌なことにも耐えられるとか
カラダが調子悪ければ
ちょっとのことにもへこたれちゃうとか
気分がすこぶるいい時には
少々のカラダの不調も忘れちゃうとか
気分が重い時には
カラダの少しの不調も辛く感じるとか
要は、バランスの問題なのかなぁ。

こんなことをうだうだと書いているのは
ここのところカラダが重いことへの言いわけ。
で、当然のごとく気分も重いし頭も重い。
そして、思考も重い。

どっちが調子悪いのかなぁ。
カラダか?気分か?
と考えてみて、
ふと、
夏バテでは?
暑くてカラダが負けてる感じなんです。

あきらかに暑さに負けてる。

カラダが重いと、心も重いということだ。
ああ、そのとおり。
でも、まだ、夏、ではないんだよね?
夏のはじまり、なわけで
これから本格的にはじまる夏に向けてどうしたらいいんだろう
と、鈍い思考で途方に暮れる私です。

このまま負け続けるわけにはいかないけど、
このままでは負け続けてしまう予感です。

2011年7月5日火曜日

根底に流れる気持ちは必ず外にあらわれる

数日間の復興大臣のお粗末な様相は
なんともやりきれぬ思いだけを残し
夏の暑さの疲れとともに
身体にまとわりつく感じだ。

彼の言動は
国民をなぜあんなに不快な思いにさせたのか。

彼は、完全に上から目線だった。

上から目線、というのは
自分は高いところから見ているわけなので
当事者意識がないということだ。
自分は特別な高い位置にいるわけだから。
その気持ちが「お客が来た時には先に来て待っているべき」
という、自分を「お客さま」と勘違いしてしまう言動に
なったのではないだろうか。

もちろん、上からな気持ちなので
命令口調にもなるだろうし
〜してやる、〜してやらない、の口調にもなるだろうし、
とにかくエラそうなのだ。

自分としては
被災地のことを考えたからこその
叱咤激励のつもりなのかもしれないけれど、
そもそも、上から物を見ている段階で
被災地のところまで降りてきていないし
寄り添うなんてほど遠い。
そして、
偉い自分をお迎えをしないなんて失礼じゃないか
という見当はずれな話が一番重要なことのようになってしまう。

上から見下げられた私たちは
極めて不快な思いをし、
顔も見たくない、とおもった。

根底にある気持ちは、言葉や態度を通して
必ず外に出てくる。

自分の気持ちを正すことは、
どんなときでも大切なことなのかもしれない。
自分は上から目線になっていないか。



 ※応接室でお客様を出迎えなければならないということは
 必ずしも当てはまらないようにおもう。応接室に案内されて
 しばらくして迎える側の方があらわれるということは、
 ビジネス上珍しくはないことだとおもうのだが。
 その辺の違和感も不快さを増す原因なのかもしれない。

2011年7月3日日曜日

もっともらしい話にだまされない

世の中は舌先三寸
だまされてはいけない
オレオレ詐欺ではないけれど
もっともらしい話について
かんたんに右にならってはいけない
皆が右見ていても一度左も見て
それから自分で考えなくてはならない
考えることを怠けてはいけない

もしもそこで
違和感があったら
それを大事にしないといけない
その違和感が何なのか
その理由を考えないといけない

もっともらしい話は
もっともらしいところにあるから
気をつけなくてはならない

なぜ?と思ったら
かならず立ち止まって
考える時間を持つと良い

それは
自分自身も同じだ
自分がもっともらしいことを言い出したら
それが本当に自分の意見なのか
もう一度考えてみると良い
ほんとうに自信を持って言えることなのか
立ち止まって考えなくてはならない

自分が自信あり気なときは
なにに自信を持っているのか
自分に聞いてみると良い
きっとその自信は気のせいか勘違いに違いない